落ちていた花
娘が拾ってきたバラの花。
娘:「お母ちゃん。落ちとったのをおじいちゃんと拾った~」
私:「きれいね~。いい香りもする?」
娘:「うーん♡(くるっと一回転する)お水しよっか」
私:「この瓶でもいい?」
娘:「いいよ~♡♡♡」
バレリーナさんが大好きで、リカちゃん人形のお世話に忙しく、絵は紙にはみ出るくらいに描く4歳の女の子。泣くと100m以上離れてても聞こえるほどの泣き声で、スカートが大好きだけど、キュロットとタイツでごまかして膝小僧が怪我まみれにならないように私は努めている。(だって女の子だもん・・・と思いながら)
「さしすせそ」の発音が「たちつてと」になるのに兄より会話が大人びてるのにはいつも驚く。いつも純粋にまっすぐな心で世界をみている私には娘であり小さな女の子。
そんな娘が拾ってきた落ちていたバラの花を食卓に一緒に飾る。
それだけで一気に部屋の印象が変わるから不思議。
同じ夢
向き合うという感じではない。一緒に並行している感覚。純粋にまっすぐに世界をみている兄妹でも向き合いすぎると喧嘩に発展している。同じ夢を持つなら向き合いすぎるでなく並行するように歩いていけばいいのではないのかといつも思う。そこにはなぜか不思議と小さな思いやりがうまれやすい気がする。
同じ目的をむいて並行しているとね。
落ちていた花を飾ろうって一緒に水にさすという同じ行為を果たす。
ここには人によっていろんな目的があるのかもしれない。
水をあげないと枯れちゃうじゃん。
綺麗に飾って楽しもう。
同じ、共通していることは目的とかいう堅苦しい感じのことではなく、価値観とかいう陳腐な言い方でもない、潜在的に潜んでいる何か共通の夢みたいなふわっとしているもの。
誰もが持っている潜在的に潜んでいるごく自然な命を慈しむような感情。
ふとした時に表れるのに、普段はいろんな環境要因によって閉まってしまいがちの何か奥にある感情。
心を許した者同士だけみたいな狭いものでなく、花を愛でるみたいに人間も同じ夢をみて並行していければ平和がある気がした。
複雑すぎる社会の中、言葉にし難い蔓延する何か違和感みたいなことを感じる時、家庭の中にあってほしいと願う小さな平和がある暮らしを切に願う。
自然に動かされる娘と同じ小さな夢というか、小さな行為が世界共通の夢のように思えてならなかった。