昨日は夫婦でいつもお世話になっている職人起業塾 高橋塾長のご招待で自主映画上映会に行ってきました。

ご主人をガンで亡くされた奥様作られた映画で、御自宅でご主人を家族で看取られた当時の映像や、家族を看取った他の方々の話なども含めて、看取ることを通して経験されことや死生観を発信された映画でした。
死という人生の最後についての何か気づきを得たいと思い、見積もりなどが溜まった忙しい中ではありましたが、それ以上に大切な時間であると思い夫婦で参加してきました。
この映画から感じることは十人十色だと思いますが、私はこの映画よりもその後に続く「臨終ワーク」と監督のお話が非常に示唆に富んで良かったです。
この映画と監督のお話から感じたことは様々ありますが、話がブレるので一番肝になる「死生観」の部分について学んだことを書きます。
監督の話から、「生前49日」というものがあるらしく、事件や事故、急病などの突然死の方も含めて死の約1ヶ月半前から、それまでの本人の本望ではなかった生き方の部分を清算するような行動があるそうです。
家族との確執を無くすような出来事や、御本人が抑制されていた欲望を解放する言動がみられたり。
そういった経験が看取られたご家族にとって良い体験だったようで、看取るという経験を忌み嫌うものではないというものでした。
また不幸とされる様々な死に方がありますが、それはその「死に方」だけにフォーカスしているのであって、例えば監督のご主人は47歳という若さでガンで亡くなられましたが、そのお陰でこの映画ができ多くの方に示唆を与える機会が生まれたわけで、また家族たちに死に様を通して死ぬこと生きることを考える貴重な経験を与えた訳で、「死に方」に対する残された側の捉え方はどうにでもなり、マイナス面にばかりフォーカスして、まるで死者の人生自体をマイナスに引きずり下ろすのはどうか?という意見でした。
子供がイジメで川で溺れさせられて亡くなるといった事件も、その子は自分が死ぬことでイジメについて社会に問いかけるという役を買って出た天使であると、この映画を見にきた小さい子が発言したというエピソードもありました。その亡くなった子の悲しい部分を強調し、「可哀想な子」というイメージに引きずり下ろすのではなく、もっとキラキラしていた時のことに目を向けてあげたほうが良いのではないかという話でした。

この「いきたひ」の漢字は「生」と「死」を合わせた造語で、監督には「生」の部分が人が両手を挙げた形に見え、その下の大きな「死」がその人を支えているように見えると。
私たちは先祖たちの多くの死の上で今生きており、次の世代にバトンを渡す立場。食べ物の命、野菜であっても命があり、その命を頂き多くの死の下支えのもと今私たちは生きているのだ、ということで、
例えば「どうせ自分なんか」と諦めるような考え方は、自分を下支えしている多くの命に対しても失礼で喜ばれることではなく、その多くの命を尊重するなら、自分に素直に自分が喜ぶことをしている姿によって先祖も喜ぶのではないかという、非常に説得力を感じた話でした。
監督はこの映画上映会、お話会を全国でされていて、その参加者の方との話をいくつか紹介されましたが、家族が自死されたかたの話でも、それまでは肯定的に捉えることができなかったが、この映画上映会に参加した事で「看取り直し」ができるようで、自分の意思で死ぬ「自死」という家族の決断を尊重できるようになった、というエピソードもありました。
この映画上映会、お話会で学んだことは、我々は「死に方」に対して必要以上にマイナスに捉えすぎているのではないか?という事と、自分が素直に喜べることをする事で自分を下支えしている多くの命に感謝をあらわそう!ということの2つです。
今回はパラダイムシフトと言っていいくらいの学びがありました。次回は(機会があればですが)、この映画・お話会から感じた「死生観」以外の「医療・介護」のことをまとめたいと思います。
1つ書き忘れていましたが、映画上映後の監督のお話の前に「臨床ワーク」というものがあり、そこで私は自分に「ありがとう」と「御免なさい」という気持ちになり涙が出てしまいました。
監督の言われた「自分に素直に喜ぶことを」が出来ていなかったからだと思います。
今日のまとめ
・自分が素直に喜べることが出来なければ、自分を下支えしている多くの命に対して申し訳ない。
・「死に方」は人生の一部でしかなく、しかも捉え方次第で良くも悪くもなる。
ありがとうございました。